安部龍太郎
コロナ禍によって、人生が大きく変わった方々も多いと思います。
私はもともと自宅勤務ですからダメージは少ない方だと思いますが、それでも窮地におちいりました。外出自粛2ヶ月にして、まったく小説が書けなくなったのです。
エッセイや紀行文は普通に書けるのですが、小説のイマジネーションがまったく働かなくなりました。 こんなことは46歳の時に大スランプにおちいって以来です。
そこで外出自粛の禁を破り、湯河原温泉のリゾートホテルにやって来ました。するとどうでしょう。凍りついていた創造力が働きだし、原稿がスムーズに書けるではありませんか。
どうしてだろう。そう考えて思い当たったのは、巷の自粛縛りでした。外へ出るな、人に会うな、居酒屋へ行くな。stay homeと犬のように脅しつけられ、自由な発想、夢のある創造力がすっかり枯渇していました。
こうなったら、外出自粛などに縛られてはいられません。雨にも負けずコロナにも負けず、創造力を守り抜くしかないと思っています。

偶然ですが、滞在しているリゾートホテルは、夏目漱石が1916年1月から20日ほど滞在していた所でした。彼はリウマチの治療に来ていたのですが、この年5月から「明暗」の連載を始め、12月に他界して絶筆になっています。
その間、およそ七ヶ月。漱石を漱石たらしめた傑作が、そんな短い間に書かれたと知り、私は勇気を奮い起こしています。
この30年間、そこそこの仕事しか出来なかったけれど、七ヶ月あれば挽回できる。その確信を胸に、残りの人生を一心不乱に生き抜こうと思っています。
